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のんびり温泉案内所

個人レベルのがんばりが観光地を救う - 4合目

第12章 資格というきたない言葉


他人を観光案内をすることにはたして「資格」など必要あるのでしょう
か?

差別化を明確にしなかった頃(旅行業の資格許認可を持っていた頃)、
四国の遍路の旅を企画しました。
お遍路さんが通る街道筋の住民は昔からお遍路さんに対して親切に接し
たそうです。
「接待」という言葉はお金で取引先を歓待するという意味でよく使われ
ますが、四国ではお遍路さんにサービスを提供するという意味でよく使
う言葉です。

食事や宿泊を提供することと観光案内は密接に関係しています。
私がもし有罪なら食事や宿泊を提供する業者にまで「資格」を強要する
ことになりかねません。
私を陥れた既得権者はそこまで考えているのでしょうか?

日本は島国で見知らぬ人を「流れ者」呼ばわりし、排除する傾向があり
ます。
「資格がなければ仕事ができない」という思想に近いものです。
しかし、それでは観光立国などできるはずもありません。

二十歳でこの仕事に就いたのは「自分が好きな旅行を他人にさせてあげ
られて、それを仕事にできれば、そんな良いことはない」。
そういう考えからでした。
今でもゼニカネ抜きでも自分の小さな車でもだれでも案内をしてやりた
い。
それで喜んでもらえればそんなうれしいことはないと、いつも考えてい
ます。
あれがダメ、これがダメ。
資格がなければ仕事ができない。
資格がなければ他人に喜びを与えることができない。
この考え方は観光産業全体のためにはならないです。

私は旅行業法の一文、埃を被った法律で摘発されましたが、こんなこと
で摘発された人は今までいなかったことでしょう。
海外の特別な地域への案内や危険を伴う所への案内をしていた業者が、
それで「事故」を起こしたときに制裁や調査の意味で資格云々で拘束す
るというのが現実でした。

こんな規制がまかりとおれば、多くの零細業者がグレーゾーンで仕事を
するしかなくなります。 


※資格がきたないものになってしまっているのは、資格を持つ既得権者
が「他社排除」をしているからです。

資格は自分の技術レベル知識レベルを回りに伝えるための手段というこ
とが本筋なのに、資格がなければ何々ができない、ということは憲法で
定められた「自由」と「職業選択の自由」それに「機会の平等」に反し
ています。

資格制度はその人の能力や技術を使うに当たって、他人に危害を与える
確率の高い業種に例外的に使うべきではないでしょうか。

資格で収入を得られる時とそうでない時を分けて考えてみます。
その資格が希少価値の時は収入を得られるが、資格者が過多(必要とさ
れる量より資格者の数が多いとき)な状態の時にはその仕事では収入は
得られない。

東京で旅行の専門学校に通っていた頃、つきあっていた女性が美容学校
を出て美容院に見習いで働いていました。
勤めはじめてから1年たって国家試験を受けるというのですが、試験の
内容を聞いたところ、
「現実の仕事の内容とは全く関係ない」のだそうです。
後になって「カリスマ美容師」と呼ばれた売れっ子の美容師が「無資格」
で摘発されたというニュースを聞きました。
「売れっ子」ですから技術やお客さんの評判は最高なのでしょうね。
若い頃から腕が良い分、国家試験などは無視して「お客さんに喜ばれる
技術」を追求した結果でしょう。
被疑者である私の「うぬぼれた性格」と共通しているようですが、反面、
お客さん受けが良いということも共通しています。
「資格を取らねばならない」という考えの人は、どうもお客さん受けが
悪い、ということはいえるようです。

旅行業の場合、事業所ごとに旅行業務取扱主任者という個人の資格を持
つ者がいることが義務づけられています。
海外の業務を扱える資格を昔は「一般」今は「総合」旅行業務取扱主任
者と呼び、国内に限定された資格を「国内」旅行業務取扱主任者と呼び
ます。
私は英語が全くできないので、昔の「一般」を取得することができず、
国内の方を自宅を営業所にした25歳の時に取りました。
私が就職活動をした頃は、「一般」を持っていれば就職には有利でした。
その時代は海外旅行者の数も右肩上がりの時代の話です。
ほとんどの人が旅行会社頼みで海外旅行をした時代。
今のように個人で海外旅行をする人が主流になれば、航空会社と行き先
の国でサービスを提供する者(ホテルや現地の旅行会社)が直接お客さ
んと「契約」することになるのですから、国内の旅行会社の仕事がなく
なるのは自然な事です。
30年前と変わり映えのしない勉強を強要されて取る資格が役には立たず、
旅行業も資格と実務が異次元のものとなっているのです。

それと、資格を取るための勉強の内容は、「既得権者達の意思」に洗脳
させられてしまうので、新しい時代を先取る考え方がもてなくなってし
まいます。

インターネットの画面でも海外の予約ができる時代。
総合旅行業務取扱主任者の「技量」がどこに反映されているのでしょう
か?
無資格を取り締まったところで、取り締まる人たちを、消費者(大衆)
が敬意を現したり感謝をするはずもないことでしょう。

無資格で摘発された業者を評価する消費者の声は

「他社排除という悪意によってチクられた」

というものです。

はらぼじ観光の社員にも一般(総合)も含めて営業所の数にはあり余る
資格者はいました。
何かに困って放棄したわけではないのです。
資格を持つことの弊害を考え、こういう考えが回りのためにも役立つと
思ったから資格をあえて捨てたのです。
資格を持っていることで逆に差別化できなくなる。
許認可を受けているという理由で敵意を持った既得権者が営業妨害にや
ってくる。
悪意を持った既得権者から逃れるために自ら資格許認可を放棄したので
す。

18歳の若さでとび職として最前線で働いている自慢の息子がいます。
中学の時には勉強が苦手で個性的でした(ぐれている、と先生達は見て
いたことでしょうが)。
「個人レベルのがんばり・3合目」で書きましたが、その上の娘のこと
で学校から不当な呼び出しがあって、私もその学校の先生に対して不信
感を持っていました。
結果、先生の言うことを素直に聞くことはできませんでした。
息子の登校拒否を私が応援する、という形になりました。
息子のことで学校に行ったとき部活動の先生が「部活動に参加する
『資格』がない」と言ったのが印象的でした。

どんな人間にでも社会参加する「資格」はあるのですよ、センセイ達!

私は前橋高校という進学校の落ちこぼれですが、一般的な前高生が小企
業の社長になると会社をつぶすことが多い。
役人や大企業には向いていても、小企業の経営には向いていない。
先生が正しいという答えを正解とする勉強では、有能な「サラリーマン」
や「兵隊」は作れても、独自の発想で、小さな新しい仕事を作るという
起業家は生まれてこないからです。
今の先生達の考えで子どもたちに接したのでは新しい時代の経済力そして
「国力」が落ちるのは目に見えています。

登校拒否の息子でも卒業証書は届けられました。
息子は学校から解放されて、自分で職探しをしました。

話は飛びますが、息子より年上の高校3年生の就職活動。
高校3年生達は自分の就職口を自分で見つけることもできないのです。
職安と先生を通じてでないと高校生は就職活動ができない。
その時でしかできない貴重な体験をさせてもらえないのです。
息子は失敗しながらでも、自分で自分の仕事を見つけました。
レールからはずれたことで、「自分の」仕事を得ることができたのです。

他社排除をする既得権者達はレールからはずれたことがない人たちかも
しれません。

息子が中学を「やめた」後、会社に呼んで、息子が嫌いな「勉強」をい
っしょにしたことがありました。
「15歳のワークルール」という本の読み合わせでした。
息子に語彙や書かれている法律の内容などをインターネットで調べさせ
るのですが調べることが早くて上手なんです。
学校の勉強が全くできないのに調べることはできるのです。
通訳だってパソコンが無料でしてくれる時代です。
自分で目的意識さえ持てば何でも調べて理解することができる。
上の学校に行くための勉強、そんなことが何の意味のないことだとつく
づく思います。 

要はいかに自分が目的意識を持てるかどうか。
息子の学校の先生にしても、私を陥れた既得権者にしても、なぜ、「あれ
がダメ、これがダメ」と言って、がんばっている人の「やる気」をそぐよ
うなことばかりするのでしょうか!

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